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新宿御苑の歴史探訪【福羽逸人】

歴史

5月19日は明治から大正にかけて、現在の新宿御苑の礎を作り上げた人物である「福羽逸人(1856~1921年)」の命日です。

そこで、今回の新宿御苑の歴史探訪では福羽逸人のお話しをいたします。

新宿御苑における福羽逸人の大きな功績は、庭園の大規模な改修です。
福羽が新宿御苑の前身である、新宿植物御苑時代に庭園改修を構想し、フランスの造園家アンリ・マルチネーに設計を依頼、明治39年(1906)に完成しました。この時に名称も改称し、名実ともに「新宿御苑」が誕生しました。

(アンリ・マルチネ―の鳥瞰図)

もう一つの功績として挙げられるのは、国産苺第一号となる「フクバイチゴ」の作出です。現在流通しているイチゴのルーツをたどると、祖先がフクバイチゴであることがわかります。当時は皇室用の門外不出の「御料苺」、「御苑苺」とも呼ばれており、1960年代まで栽培されていました。

(温室で栽培されているフクバイチゴ)

ほかにも、蔬菜や果物、花卉の研究において、日本の近代農業の発展に大きく貢献した人物です。

福羽逸人の来歴についても簡単にご紹介します。

福羽逸人は、安政3年(1856)に石見国鹿足郡津和野町で元津和野藩士佐々布利厚の3男として生まれました。
明治5年(1872)16歳の時に国学者・福羽美静(ふくばよししず)の養子となり上京し、のちに東京学農社に入学、農芸化学を学びました。

明治10年(1877)年、勧農局試験場の実習生となり、農業園芸の実習と加工食品製造の事業に従事しました。その間、ブドウやオリーブの栽培にも携わりました。

明治12年(1879)、植物御苑掛の配属となった後、非職となり、ブドウ栽培及び醸造法の研究のため、また一般園芸を習得するために、フランス・ドイツへの留学を命じられました。これは福羽逸人が強く希望して実現したものでした。

留学時に、庭園造築法を学んだ福羽は、欧州の列強各国の皇室庭園は、広大な敷地であること、また園芸場の設備が整い、宮中の台所としてはもちろん、民間の模範となっていることなどに触れ、後に庭園改造計画を実施しました。

新宿御苑において、在来種、西洋種のさまざまな野菜や果樹、花卉を試作し、品種改良などを行い、野菜や果樹は皇室の食材として供されていました。
そして、研究の結果や知識を農業書、農業雑誌に発表し、後進に指導したり、民間への普及に努めていました。
明治23年(1890)から37年まで、東京農林学校(現東京大学農学部)で園芸学の講義を行い、新宿御苑に研究生を受け入れ指導もしていました。

【著書/蔬菜栽培法】

福羽が手掛けた事業は新宿御苑だけではありません。国内外のさまざまな庭園の改修や、植物園の建設に携わってきました。
国内では、赤坂離宮内庭改修、京都皇居外苑改修、武庫離宮(現須磨離宮公園)の造営、国外では、韓国の皇室より依頼され、宮廷園内に植物園の開設の計画にも携わりました。

【武庫離宮庭園新営図/回顧録より出典】

大正3年(1914)大膳頭(だいぜんのかみ)を要請されます。福羽は、これまで行ってきた新宿御苑、赤坂離宮における養菊事業、武庫離宮内のオリーブ栽培の指揮監督も兼任することを条件に、これを引き受けます。これまで新宿御苑で培ってきた経験を活かして職務を遂行しました。
特に宮中の響食では外国産の食材を使用せず、国内産の野菜を使用し、西洋料理を導入。新宿御苑で栽培した花卉を装飾するなど、新しいことを積極的に取り入れ、改革にも取り組んでいました。
大正4年(1915)の大正天皇即位大典では、装飾花にランのみを用いたことは、一朝一夕の思い付きではないと語っています。

【福羽逸人の回顧録より】

福羽逸人は、『回顧録』という形で自らの経歴を綴っています。大膳頭を辞職してからも、自邸において室内植物栽培、菊花の改良に努めると語ったそうです。晩年には農学博士も授与されています。まさに、新宿御苑ともに歩み、園芸に一生を捧げた人生だったといえます。

現在の新宿御苑があるのは、福羽逸人がいたからこそといってもよいかもしれません。

<著者:福羽逸人 発行:国民公園協会新宿御苑 (新宿御苑開園100周年記念出 版)>

『回顧録』には当時の貴重な写真も多数掲載され、新宿御苑や日本の農園芸の歴史をひもとく書籍として、また、福羽逸人という人物を知る読み物としても充実した一冊となっています。

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