<特集> ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 中編
(画像:昭和館から寄贈)
今回の特集では、【特集 ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 前編】に続き、中編をお送りします。
~木下氏回顧録『皇室と国民』(新小説社)から~
皇居のご奉仕のため上京する青年団の動機や覚悟について聞いているうちに、私たちは粛然襟を正さざるを得なかった。厚く一同の厚意を謝するとともに、遠路はるばる上京されるのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだに瓦やコンクリートの破片が到る所に山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に、一同の喜びはたいへんなものであった。
宮殿の焼跡は上下二段の段地で、なかなか広く、上段が奧宮殿、下段が表宮殿の跡で、六十余名の青年たちは、ここを作業場として三日間猛烈に働いてくれた。皇居の付近には泊まるところはなく、宿舎は小金井付近であったと思うが、皇居から20キロも離れているのに、当時、交通機関も充分に復旧しない混雑の中を、毎日そこから通ってきて、朝から夕刻まで働いてくれたのである。三日の後には、何万個という瓦や石の破片は宮殿跡の上段地と下段地との境目にある石垣のところに、実に見事に積み上げられてしまった。
東北の田舎から遥々上京してきた沢山の青年男女が、皇居内の清掃を手伝ってくれるということは、既に両陛下のお耳にも達していたが、連日の作業が、いよいよ今日から始まるという12月8日の朝、陛下から私に、「今日から仕事が始まるなら、その前に一同に会いたい」、とのご希望があった。
私も、心ひそかに、それを期待していたので、大喜びで、早々使いを出して、現場にいる青年たちに、お昼前に、天皇陛下が、作業現場においでになるから、そのつもりでいてもらいたい、との通知をしておいた。
~鈴木氏回顧録『みくに奉仕団由来記ー皇居草刈奉仕の思い出ー』から~
郷里をでるとき、町に残っている青年たちが、もち米を盃でひとつづつ持ちよって紅白の一重の餅をつき、せめて、奉仕行に加われない真心をこの餅に託して、贈って寄越したのです。それを、陛下に献上申し上げたい、もしできなければ宮内省の方々に食べて頂きたいと筧さんにお願いしました。すると筧さんは、ぜひ献上できるようにしますから持ってきて下さいということです。
ところが、蓋をあけてみると、紅白の餅はついてすぐ持ってきたうえに、汽車が混んだので箱はつぶれているし紅と白とがくっついていて、形もゆがんでいる。しかし、たとえ召し上がらなくとも、せっかくお受けくださるとおっしゃるんだから差し上げた方がいい。などと献上するかしないか思い悩んだ末、メリケン粉で形を直し、新しい箱にかえて、白い大きい紙で包装し“上”と書いて、翌日それを取ついでもらった。これは、その翌々日木下侍従次長さんから「お餅は皇太后陛下始め、皇太子様、義宮様、各姫宮様方にそれぞれお分けして、大変おいしくいただいたからお礼を申し上げて下さい」という陛下からのありがたい伝言をいただき、一層感激に涙したことでした。
12月8日作業当日、午前2時起床。戸外に設けられた竈(かまど)の火が女子青年たちによって燃え始めた。部屋の掃除をするもの、水を遠くから運ぶもの全員皆労の中に準備を終え、朝食をすまして出発したのが5時。真冬のことですから真暗です。黙々として国領の駅に向かい、東京駅についたのは午前7時頃、坂下門に近づくに従って、アメリカ兵が二重三重に警護しています。早朝なので、ほとんど人通りのないなかを、まちまちの服装をして、血気な青年たちが、三々五々、朝もやの中を皇居に向かって進むのです。シャベルや鎌や鍬などをかついでいる。どこから見ても、奇怪な一団です。アメリカ兵の前にさしかかるたびに、今とがめられはしましかと、びくびくしながら、やっと坂下門にたどり着きました。
筧さんが私どもを作業場へ誘導し、東御車寄せの跡に立って、奉仕する場所の説明をして下さいました。それは、宮中の奧御殿の跡から、ご学問所の跡、豊明殿の跡等いわゆる宮殿の中心部です。が、今は跡かたもなく焼けて累々たる瓦の中から蓬や雑草がいっぱい生繁っていました。
筧さんからさらに注意を与えられました。陛下は毎日御政所にお通いになられますから、あるいは作業中に遠くからお姿を拝することがあるかもしれない。その時は失礼にわたらないように、適当に敬意を表すように一同に指揮してほしいとのことでした。私どもは宮城の外の草を刈らしてもらえばいいと思って来たのに、宮殿の跡にまで参入を許され、夢にも想像しなかった陛下のお姿さえ拝せるかも知れないと聞いて感激して無我夢中で働きました。
(出典:http://www.city.ushiku.lg.jp/kouhoushi/20030901/13mukashi.htm)
前例のないご対談
奉仕はだんだん進んで、正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の気配がするので、上を見ると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっておられます。そばに木下侍従次長さんがお付きになっている。私は全員に合図をして陛下に最敬礼をしました。そしてすぐ叉仕事にとりかかっておりますと、お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上がって御前にまいりますと、木下次長さんがお取次ぎで、いろいろと御下問を賜りました。最初に陛下の仰せられたお言葉は「どうもご苦労」ということでした。私は恐懼(きょうく)しつつお礼を申し上げました。
「このたびは外苑の草刈りに奉仕いたすつもりで参上いたしましたところ、特別のお計らいで皇居深く参入を許され御殿跡の清掃にご奉仕できましたことは無上の光栄でございます。青年たちもかくのごとく感激に打ち震えながら働いております」と申し上げると「御苦労」というお言葉を更に賜り、つづいて、「汽車が大変混雑するというが、どうやって来たか」「栗原というところはどんなところか」「米作の状況はどうか」「どんな動機できたのか」など、いろいろご下問がありました。
ほんの四、五尺隔てて拝する陛下のお顔は、大変おやつれになっておられました。お言葉の合間、時々軽く頭をおふりになるのも戦時中の極度のご心労とご激務のご疲労から来る軽い発作のためかと、お察し申し上げるにおそれ多いことでありました。今年は米作は半作ですが、栗原の農民は少しもへこたれてはおりません。草根を粉にして食ってでも強く生き抜こう、いま粉食の実践に一所懸命なことも申し上げた。
栗原という郡は宮城県では一番大きい郡で、宮城県の北海道とも言われています。農業が大半で、山地では馬も産します。朝早く起きて草を刈り、馬を肥やし、堆肥をつくって米を増産する。だから草を刈ることは昔から堪能で、ここ数年荒川土壌の草刈り競争では、この軍の青年は、いつも第1位を確保してきましたと申し上げますと「あの草刈り競争のことは新聞で見て知っている」と仰せられてお笑いになりました。戦後後期の最も繁忙を極めたご政務の中で、草刈り競争のことまで、ご記憶に止めておられたことを拝承して、驚いた次第です。
約三十分、私はご下問ごとに、ありのままを率直にお答え申し上げましたが、そのつど「ご苦労」とか「ありがとう」とか仰せられ、その後、ご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の目にも涙がいっぱい光っていました。
一歩外へ出ると、国体批判の荒々しい波が渦巻いている。空にはアメリカの飛行機が、乱舞して、示威運動でもしているようである。君が代のすんだ後は、青年たちの真剣なシャベルの音のみに返った。御座所跡の桜の老木には、真冬だというのに、薄紅色の桜花がらんまんと咲き乱れていました。
(出典:https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33224583.html)
感激にあふれ作業にかかっていますと、今度は同じ場所に皇后陛下が女官をつれてお出ましになりました。この時も同様に御前にまいりますと、木下次長さんから、郡の事情を説明しなさいとか、今年の米の状況や郡や人々の心構えをお話ししなさいとか言われましたので、いろいろお答え申し上げています間に、陛下ご自身で直接お話し下さるようになりました。女子青年団員にも直接ご下問を賜りたいとお願い申し上げましたところ、ご快諾になりました。女子青年団や婦人会は、この困難なときに、どんなことをやっているのかというお尋ねがございました。男に代わって田畑で働いたことや、戦後の食糧難においての粉食運動、子馬の手入れは女手がいいことなど申し上げました。皇后陛下は、やはり婦人らしい問題にご関心を寄せられ、食糧の問題で家庭の主婦が苦しんでいることについては特に深くご質問遊ばされました。皇后陛下のご下問も約三十分近くにわたった為に、両陛下のご日程がすっかりくるってしまったことを後でお聞きし大へん恐縮しました。
後編に続く
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