(画像:昭和館から寄贈)
皇居ならびに赤坂御用地において、除草や清掃、庭園作業などの奉仕活動を行うため全国各地から上京される人々がいます。奉仕作業は原則無報酬で4日間行われますが、その間の宿泊や食事などはすべて自己負担です。1団体15人から60人で構成されるこれらの団体は『皇居勤労奉仕団』と呼ばれ、年間約1万人近くの人が参加されています。
『皇居を綺麗にしたい』という思いから始まった皇居勤労奉仕ですが、その歴史については、意外に知られていません。
今回の特集では、『皇居勤労奉仕』がどのようにしてはじまり、現在に至ったかについて、深く関わりのあった木下道雄氏(元宮内庁侍従次長)、筧素彦(元宮内大臣官房総務課長)、鈴木徳一氏(元宮城県栗原郡青年団代表)らの著書や回顧録など当協会所蔵の資料を基に、各氏の視点別に3回に分けご紹介します。
【皇居勤労奉仕 発端の物語】
昭和20年ー終戦の年、秩序は乱れ、茫然自失の国民が疲労困窮に喘いでいた東京、皇居周辺では、至るところに占領軍の歩哨(ほしょう)が威圧感を持って立ち、管理の統制を欠いた二重橋前広場の六十余箇所の照明塔は一つも残らず破壊され、道路といわず芝生といわず、いたるところ踏み荒らされて、お濠と森林とに囲まれた皇居は、外観こそ一見、昔とかわらぬようであるけれども、一歩皇居に踏み入れば、木造の建物は殆ど焼失し、さしも端正雄大であった宮殿の跡も、瓦礫が散々した痛ましい状況であった。(昭和24年まで二重橋前の広場は宮内省の所管)
~筧氏回顧録 『皇居を愛する人々 清掃奉仕の記録』(日本教文社編)から~
11月下旬、二人の男性が宮内庁を訪れた。「ただいま、坂下門に、宮城県栗原郡青年団代表、鈴木徳一、長谷川俊と名乗るものが、総務課長に会いたいと希望しているがいかがいたしましょうか」との連絡を受けました。要件を聞くと、荒廃している皇居内外の清掃奉仕を許してもらえないかというものでした。私はこれを聞き、占領下にある現況を鑑み、大いに驚き、申し出の二人の決死の熱意の程を理解し、感動しました。二人からの申し出を直接聞き終え、実施することの重要性を強く感じました。・・・・。
当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の制肘(せいちゅう)、抑圧を受けている極めて厳しい事情の下にあるので、こういう申し出をされるかたも命がけなら、それを受ける方もまた異常の覚悟を要する状態でした。私は考えました。いかに非常時とは申せ、これは一課長たる私一個の判断で決すべき事柄ではないかもしれない。しかし、これを組織による意思決定の形をとったら、自分一己の責任は若干軽減されることはあるかもしれないが、万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え、(中略)一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました。・・・・・しかし、いかに己を空しくて熟慮断行するといっても、全く一人だけの知恵で思いついたままを行うことは軽率の謗りを免れません。私としては、陛下が、地方へお出ましになれない現在、地方の人々が逆におそばへ近付き、接触を保ち、その誠意を披瀝(ひれき)する途を開くことは非常に良いことであると確信したので、私が日頃尊敬信頼していた大金次官(後に侍従長)にこのことを内々ご相談しました。当初は反対していた大金次官も、再三再四執拗に食い下がったところ、「君がそんなに熱心にいうなら、一切を君に任せる」と承諾して頂きました。
その後、鈴木、長谷川の両氏は、交通不便の折柄を奔走された結果、宿舎や乗車券の手配などが完了し、12月7日六十余名の同志を引率して状況してこられました。実施の目途のついた頃を見計らって、私は、この計画を木下侍従次長に話をし、協力を願い出ました。次長は、大賛成で、奥の作業計画についても全面的な協力を約束していただきました。
(日比谷交差点で交通整理を行うMP 出典:共同通信)
~鈴木氏回顧録 『みくに奉仕団由来記ー皇居草刈奉仕の思い出ー』から~
皇居周辺の荒れ方には宮内省の方々はみな心をいためておられながらも、激減した皇室予算ではどうにもならずにおられたのでしょう。ところが、これは後でわかったことですけれども、筧さんの奥さんが戦争中偶然にも栗原郡に疎開して、土地の事情についてはよく理解されておられたので、すぐ安心して、私どもの願いをききいれてくれたのだそうです。それに、時の侍従次長木下道雄さんが、実に青年には理解のある方で、すぐにご賛成になった。ほんとうに筧さんといい、木下次長さんといい、青年に理解のある方々がおられたことを心から幸せだと思いました。
筧さんとの打ち合わせの結果、奉仕は12月8日からと決まりました。
さて奉仕に上京する青年たちをどうして決めるかが大きい問題でしたが、折よく若柳町で青年学校長会議が開かれたので、先生方に推薦方をお願いしました。ところが先生たちは口を閉ざして誰も返事をなさらない。御真影奉安庫(殿)(※注意)は壊され、教科書も忠君に関する記事は抹消されるというときに事もあろうに、皇居の奉仕ということを言ったのですから返事ができないわけです。ところが二、三日して、その席ではご返事のなかった先生方の中から、是非この青年たち参加させてくれと、名簿にそえて申し込んでくるものが出てきました。その中の一人は、教師を追われてもいいから参加させてくれ・・・と血書まで添えて申し込んできました。たちまち予定の六十名を突破したので、六十名だけ選考しあとは断らざるを得ないことになり、特に学校の先生や地方事務所の教育主事には、おとがめを受ける事を危惧し、この計画は知らせなかったということにしました。
(※注意)奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物である。...戦前に建築された古い校舎・講堂を持つ学校では、校舎内に設けられた「奉安庫」が残る所もある。奉安殿は、校舎内に造られる...1945年(昭和20年)12月15日、GHQの神道指令のため、奉安殿は廃止された。
いよいよ上京するものの勢揃いができたので、私は仙台に行って先輩の一力次郎さんに報告したところ、大変な反対にあいました。一力さん河北新報の会長でG・H・Qの意向をよく知っておられました。しかも12月8日の朝刊に掲載するG・H・Qからの達しによると、当日は興亜奉公日(※注意)で、一切の団体行動はまかりならんということである。それもこともあろうにその当日に団体で皇居に奉仕するなど、とんでもないというのです。一力さんのご指摘はありがたく拝聴し、帰郷して私はすぐ上京する青年たちを集め、荒々しい社会の空気を素直に伝えて、もう一度青年たちの決意を聴いた。ところが皆、どんな困難がってもやり通すといって微動だにしない決意を示してくれました。
12月6日いよいよ出発当日、周囲からの注意によって、団体行動に見えないよう、まちまちの恰好で出てきた。また、こういう世相の最中だから、家族も大変心配し、ほとんどの青年が、家族と水杯を交わして出てきた。
当時の東京は、食料や燃料などが乏しく、一家の食事さえ儘ならない状況で、しかも占領軍の取り締まりが厳しい状況でした。特に奉仕作業を予定していた12月8日は、興亜奉公日(※参照)であったため、一切の団体行動を謹慎するお達しがGHQから出されていました。そのような中で、上京するなど言語道断だと、相当な反対があったそうです。
※興亜奉公日とは・・・1939年8月に閣議決定され、9月から実施された生活規制で、毎月1日があてられ、国旗掲揚、宮城遥拝、神社参拝、勤労奉仕などが行われ、食事は一汁三菜、サービス業は休業、飲酒の禁止など
想像もできぬ混雑した汽車の中で一睡もできず、つり棚につかまったまま翌朝上野駅についた。宿舎は多摩郡の国領にある東京重機という会社の寮です。日本青年館も小金井の浴恩館も断られ、やっとの思いで借りることができました。
午後4時ごろ、幹部の2、3人と宮内庁に着京の挨拶に行きました。
すると筧さんが間もなく帰ってこられて「よかった、よかった、あんたたちが来られなかったら、私は腹切りものでしたよ・・・」という。これは、木下侍従次長さんを通じて陛下に言上申し上げたところ、陛下も大変お待ちかねという話なのです。・・・・
奉仕場所の打ち合わせの時は、最初はこちらで申し出た通り、外苑の草刈りということだったが、後に総務課で相談された結果、焼け落ちた宮殿跡の取り方づけをやってもらおうということになったと、この時筧さんからうかがったのです。宮殿跡といえば、あの夢に見た宮城の緑青色の甍(いらか)の真下のことです。私どもはそれを聞いて、皇居の真中で奉仕できる幸せをただただ有り難くお受けするのみでした。
(出典:『開封された秘蔵写真 GHQの見たニッポン 太平洋戦争研究会2007』)
12月8日、草刈鎌など道具も携えた女性を数名含む2,30歳代の青年の一郡が皇居坂下門外に現われました。有志は、「みくに奉仕団」と命名され、勤労奉仕の申し出に宮内庁を訪ねた団長の鈴木徳氏46歳(慶応義塾出身)と東久邇宮内閣の緒方国務大臣の秘書官を務めていた長谷川峻氏35歳(のちに衆議院議員)の2名を筆頭に、19歳~35歳の男性53名、女性7名計62名で構成されていました。
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2017年4月25日 17:27