北の丸公園の歴史のご紹介
今回は北の丸公園の歩みをザ・フォレスト北の丸の展示コーナーの資料を使ってご紹介します。
江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって築城されたと言われていますが、天正18年(1590)に徳川家康が入府した頃の北の丸はまだ竹藪に覆われていました。
現在の江戸城の姿は慶長9年(1604)の天下普請で形作られました。(天下普請とは幕府が諸大名に命じた土木工事の事)将軍が居住する本丸を、北の丸・西の丸・二の丸・三の丸・吹上が囲み、その外側を重臣が居を構える大手門・大名小路・西の丸下が控える大城郭です。本丸のすぐ北側に位置する北の丸は、代々将軍への忠誠度の高い者の屋敷地でした。
こちらは天下普請後(1624~1644)の北の丸。三代将軍家光時代は、三男長松や春日局、千姫(天樹院)、弟の駿河大納言忠長の屋敷がありました。・・・千姫の屋敷は現在ですと科学技術館辺りでしょうか。
江戸の大半を焼失したと言われる明暦の大火(1657年)後の北の丸は火事対策として割り替えが行われ明地(空き地)が増えていたようです。
江戸中期に入ると、将軍家より分立した御三卿(田安・一橋・清水)の田安家と清水家の屋敷地となり、そのまま明治を迎えます。
・・・ここで、現在の田安門に残る貴重な刻銘をご紹介。
田安家の名前の由来となった「田安門」高麗門の扉にある肘壺金具(ひじつぼかなぐ)。こちらには「寛永13年(1636)」と彫られており、旧江戸城の遺構の中で唯一明暦の大火以前に建築した門だという事がわかります。田安門は、清水門と共に国の重要文化財です。
こちらは明治16年(1883)の北の丸全体図。皇居をお守りする近衛師団駐屯地として使用されていましたが、昭和41年(1966)には、ほぼ近衛師団兵舎は撤去され、昭和44年(1989)に国民公園として開園し、今日に至ります。
(2月13日に撮影した園内のカワヅザクラ)
現在北の丸公園は皇居の森と一体となり、四季折々の植物が楽しめるほか、野鳥や昆虫など、多様な生き物が生息する緑豊かな公園として人々に親しまれています。
江戸から明治、昭和と時代の移り変わりと共に姿を変化させてきた公園の歴史を振り返りながら、園内散策をお楽しみになってはいかがでしょうか?