厳粛な中に風格漂う坂下門
今回は、旧西の丸御殿の坂の下にある事から名付けられ、現在は宮内庁正門として残る「坂下門」にスポットを当ててご紹介します。
江戸時代、西の丸御殿の入り口として使用されていた「坂下門」は、戦国時代以降に築城された城に多く見られる一ノ門(高麗門)、二ノ門(高麗門)から成る桝形門で、門をくぐって城内に入り左にある坂を登った所に西の丸御殿(現在は宮殿)がありました。
西の丸御殿は江戸城内のもうひとつの中心「御影城」と呼ばれ、徳川家康の隠居所として築城しました。その後は次期将軍もしくは将軍の居所として使用されていましたが、本丸の度重なる焼失により幕府と将軍家が西の丸に入城し、そして明治を迎えます。
現在の「坂下門」は、明治新政府により渡櫓門のみを残して向きを北面から東面へ90度移動し車通りをよくしています。
そして、坂下門と聞いて思い出されるのは文久2年(1862)1月15日に起きた老中安藤信正が6人の浪士に襲撃された「坂下門外の変」ですよね。
「桜田門外の変」に続く重職者に対する襲撃は5年後に起こる幕府倒壊に向けた足がかりになった事は間違いではないように思います。
今尚、行政の入り口として使われている風格漂う坂下門をご覧ください。