【新宿御苑の歴史探訪】皇室行事「観桜会」
新宿御苑は今から75年前の1949年5月21日に国民公園として一般公開されました。御苑の歴史にとって重要な5月は「歴史探訪」をテーマにした連載記事をお届けします。
【第1回目:江戸時代から未来へ】
【第2回目:近代農業技術の始まりと発展】
【第3回目:福羽逸人】
【第4回目:皇室庭園の完成】
【第5回目:パレスガーデンとしての新宿御苑】
【第6回目:福羽苺の誕生とラン栽培】
新宿御苑は約70種900本の桜が生育する都内有数の桜の名所です。2月のカンザクラから始まり、3月のシダレザクラやソメイヨシノ、4月の八重桜や菊桜など長い期間にわたって桜を愛でられるのが大きな魅力となっています。
なぜ新宿御苑にはこれほど多くの桜があるのでしょうか?
そのルーツは大正時代から行われた観桜会までさかのぼります。
第7回目は皇室行事「観桜会」についてのお話です。
(↑八重桜のイチヨウがみごろをむかえる4月上旬の風景式庭園の様子)
1906年(明治39年)に皇室庭園として完成した新宿御苑では、宮内省が所管する御料農場として、皇室献上用の御料野菜や果物の栽培も行っていました。花きは宮中晩さん会の装飾花に用いられ、洋ランをはじめとする温室植物の収集、研究、改良も進められ、温室の設備も拡充しましたが、桜や菊など日本の代表的な花き栽培にも力をそそぎました。
国際親善を目的とした皇室主催の桜の鑑賞会「観桜御宴」は1881年(明治14年)より吹上御所で毎年4月に催され、1879年から1916年(大正5年)には浜離宮に会場を移しました。
(↑「国民学校儀式行事精義」@国立公文書館デジタルアーカイブ)※画像タップで拡大
(↑御苑に侍る心得を記す「新作法要義」@国立公文書館デジタルアーカイブ)
翌年の1917年(大正6年)からは新宿御苑で催されることになり、その後の1938年(昭和13年)まで新宿御苑を会場として観桜会が行われました。
(↑殊に苑内には桜樹多く、と記す「宮城写真帖 : 宮内省御貸下 附・新宿御苑・明治神宮」@国立公文書館デジタルアーカイブ)
(↑新宿御苑の観桜会にイギリス皇太子を迎える準備に向けて詠まれた和歌を記す「仇花 : 和風句集」@国立公文書館デジタルアーカイブ)
(↑1922年に催した新宿御苑の観桜会に招待されたエドワード皇太子(後のエドワード8世)と園内を歩かれる皇太子摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)、貞明皇后と御一同@英国皇太子殿下東京市奉迎録)
1918年から1920年にかけて、新宿御苑では観桜会に向けて3つの事業が行われました。
まず始めに園内の在来種の調査が行われましたが、当時既に野生種の桜、園芸品種の桜あわせて18種1560本のサクラが植栽されていたと記録されています。
また、全国の都道府県知事宛てに各地における桜の自生種調査を依頼し、名称や種類(山桜または里桜等)、来歴、花期、花色などの調査を行いました。
1919年には前年の桜調査結果を照合し、2府22県2廰2総督府へ各地域の特産品種を中心に桜の注文を行いました。
同年12月までに全国各地から到着した桜の苗木及び穂木はおよそ188種1140本にものぼり、翌年の1920年春に園内の圃場に植栽されました
(↑1938年~1940年に新宿御苑の職員が描いた桜の精密画)※画像タップで拡大
新宿御苑に提供された桜は駒場農科大学農場(現在の東京大学農学部の前身)で栽培された桜が最も多く、一葉、関山、江戸、御衣黄など総数は64種類122本にのぼりました。
その他にも桜の送り主には、荒川堤の桜の植樹と保護育成に取り組み、東京市が米国に桜を贈る際に尽力した船津靜作や、綠蕚櫻を牧野富太郎に送ったことで学名ヤマデイのルーツにもなった山出半次郎の名が記録されています。
(↑開校のころの駒場農学校本校校舎と植物園)
明治時代の内藤新宿試験場から皇室庭園への変遷において活躍した人物が、1898年(明治31年)に新宿御苑の総責任者となった福羽逸人でした。
福羽は著書『回顧録』において「新宿御苑は桜の本数が多く、種類数も他に例のない、まさに日本における名花の御苑である」と記しており、特に八重桜の一葉(イチヨウ)と普賢象(フゲンゾウ)を「観桜会の時に賞玩すべき品種」としています。
(↑イチヨウ、フゲンゾウの花)
皇室行事「観桜会」にルーツを持ち、受け継がれる新宿御苑の桜。
庭園の完成から110年以上が経過しましたが、新宿御苑は現代においても八重桜の一葉を桜の代表品種とし、国内外の幅広い世代のみなさまにお花見の名所として親しまれています。
(↑一葉の花がデザインされた正門@整形式庭園の東側 ※正門からの入退園はできません)
(↑八重桜が咲く風景式庭園の様子@1950年撮影)