【新宿御苑の歴史探訪】新宿御苑の歴史を辿る~江戸時代から未来へ
新宿御苑史において「5月」という月は、様々なターニングポイントとなっています。そのことから5月を「新宿御苑の歴史探訪月間」とし、国民公園協会新宿御苑のブログやツイッターで、歴史にちなんだ話題をご紹介していきます。
第1回目の今回は、新宿御苑のルーツのお話です。
皆様は、新宿御苑が元々どんな場所だったのかご存知ですか?
遡る事、約430年前に徳川家康の家臣・内藤清成が、多年の功労と江戸城西門警固の功績を認められ、現在の新宿に屋敷地を拝領しました。
徳川家康は、清成に馬を走らせて回れるだけの土地を授けると言い、その結果、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保にまでおよぶ広大な土地を賜ったと伝えられています。これが新宿御苑のルーツです。
石高3万石余りの大名としてはもとより、江戸の中でも非常に大規模な賜邸であったことから、その所在の地名が「内藤町」と命名されました。
【内藤家の邸内にあった多武峯神社(新宿御苑の中にはございません)】
その後、7代内藤清枚の時に領地を信濃に移され、3万3千石の高遠城主となりました。この時、上屋敷を神田小川町に賜り、御苑の地は下屋敷となり、いつのころからか「四谷荘」とよばれるようになりました。
【安藤広重の描いた四ツ谷内藤新宿】
出典:名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312322)
高遠藩主内藤家の下屋敷は、のどかな田園風景そのままの庭園で、華麗な建造物などはありませんでしたが、地域の住民とともに楽しむ憩いの庭として親しまれていたようです。
現在の玉藻池を中心とする日本庭園は、玉川上水の余水を利用して完成した玉川園の一部で、江戸の名園のひとつに数えられていました。
【現在の玉藻池】
元禄11年(1698)に、幕府は内藤氏の広大な下屋敷の一部を返還させて、町屋とともに馬継ぎの施設を設けて宿駅としました。これが甲州街道最初の宿駅で、内藤家の屋敷跡に新設された宿駅のため「内藤新宿」と呼ばれるようになりました。
時代は明治になり、内藤家の屋敷は政府により買収され、その地に内藤新宿試験場が開設されました。