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新宿御苑の歴史探訪【パレスガーデンとしての新宿御苑】

歴史

現在、国民公園として広く親しまれている新宿御苑ですが、明治39年(1906年)に皇室庭園として誕生しました。国際親善のため観桜会、観菊会などが開催され、日本の国際外交の場としての役割も果たしてきた時代をご紹介します。

皇室庭園となる前の明治初期は、新しい国づくりのために農業の近代化を重要視した政府の方針により、国営の農事試験場・内藤新宿試験場が創設され、西洋農業技術の研究や指導者の育成が進められました。明治12年(1879)に宮内省の所管の「新宿植物御苑」に改称し、皇室御料地として農作物や花卉などの栽培が行われるようになりました。

明治31年、新宿植物御苑の総指揮者となった福羽逸人(ふくばはやと)は、国内外からの賓客を招き、日本の文化や自然の魅力を紹介する皇室庭園創設への想いを強くします。明治33年(1900)、パリ万博のためフランスを訪れた際に、ヴェルサイユ園芸学校の造園教授アンリ・マルチネーに新宿御苑を皇室庭園に改造する計画を依頼しました。

【福羽逸人】

その後、明治35年(1902)から5か年にわたる大規模な改修工事を行い、明治39年(1906)に、日本初の皇室庭園「新宿御苑」が完成し、パレスガーデンとして新たに生まれ変わりました。福羽は「明治天皇親臨し給えるをもって、無上の光栄を担う」と、御苑の新たな幕開けについて語っています。

(マルチネー氏の設計図は、昭和20年(1945)の空襲で焼失しましたが、現在の風景式庭園・整形式庭園の原型はほぼ設計図と同じ様式が保たれています。)

大正時代後半には、9ホールのゴルフコースやテニスコートが整備され、皇族の方々が園遊の場として訪れるようになります。明治29年(1896)に創設された「旧洋館御休所」は、クラブハウスとして利用されました。

【ゴルフコース】

【旧洋館御休所】

また、皇室御料地として、宮中で供する御料野菜や果樹、洋らんの栽培も強化されました。

国際親善を目的とした皇室行事「観桜会」は、明治16年(1879)から大正5年(1916)まで浜離宮を会場としていましたが、大正6(1917)年から新宿御苑へと移され、その後、昭和13年(1938)まで開催されました。
福羽逸人はパレスガーデン誕生前から、桜の品種の収集に力を注ぎ、特に八重桜の一葉(いちよう)と普賢象(ふげんぞう)は観桜会の時に観賞すべき品種としており、多くの八重桜が楽しめる新宿御苑として現在に至っています。

【一葉:2023年4月撮影】

「観菊会」は、明治11年(1878)より赤坂離宮御苑で催された皇室行事で、新宿御苑では、明治37年より展示用の菊の栽培が始まり、昭和4年(1929)からは会場を新宿御苑に移して行われるようになりました。

【昔の大作り花壇】

現在では、皇室ゆかりの催事として毎年11月1日~15日まで「菊花壇展」として開催されています。
大正から昭和にかけては、国際的な訪客も多く、新宿御苑はパレスガーデンとして広く世界に知られ、発展を遂げていきました。

【大作り花壇:2022年11月撮影】

その後、昭和24年(1949)5月21日に国民公園新宿御苑となり、宮内省時代から受け継いだ伝統の菊花を初めて一般公開しました。
現在も新宿御苑の菊花壇は、明治から変わらぬ伝統を継承し、菊の栽培はもとより、上家や独自の植え込み技法など、ほかでは見ることのできない皇室ゆかりの格式ある様式を今日に伝えています。

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