新宿御苑の歴史探訪【国民公園誕生】
皇室御料地として農作物や花卉などの栽培が行われ、パレスガーデンとして国際親善を目的にした皇室行事が行われていた新宿御苑の地ですが、昭和20年(1945)の3度の空襲により、旧御凉亭と旧洋館御休所を残し、苑内はほぼ全焼してしまいます。戦争という厳しい状況の中では、御苑といえども庭園でありつづけることは不可能でした。
(福羽逸人の回顧録より)
事務所とともに、書籍やマルチネーの原図を含む図面などもみな焼失しましたが、洋書のランの栽培書だけは、地下ボイラー室に避難させてあったために、戦火を逃れ貴重な資料となりました。
(福羽逸人の回顧録より)
人員は削減され、最小人数できりもりすることになりました。
温室では、御苑で作出したラン数鉢を苑内で集めた薪を使って、ようやく越冬させるほどでした。
食糧増産のために芝生は開墾され農耕地となり、農兵隊がジャガイモやサツマイモ、麦などを栽培しました。
戦後、昭和21年に東京都知事から、都の農業科学講習所用地として、新宿御苑を借用したいという依頼があり、一時東京都の所管となり、都立農業科学講習所高等部が発足しました。
日本国憲法発布後、昭和22年12月の閣議決定によって旧皇室庭園である新宿御苑は、皇居外苑、京都御苑とともに、「国民の慰楽、保健、教養等、国民福祉のために確保し、平和的文化国家の象徴」として運営していくことが決定し、厚生省に所管を移しました。
このように旧皇室園地であった新宿御苑は、国民に与えられた国有財産となり、御苑の現状復帰への取り組みは、戦後復興とともに、国家一丸となって行われました。
昭和24年(1949)3月、都立農業科学講習所は廃止され、4月1日から「国民公園新宿御苑」と名称をあらため、5月21日に正式に一般公開が始まり、翌年3月までの10ヵ月間で105万人もの入園者数を記録しました。
(過去に使用していたチケット:現在は公開されていません)
現在では環境省の所管になり絶滅危惧植物の保護事業も担い、国内外からは年間約200万人が来園する都会の憩いの場になっています。