明治維新150年記念 八月十八日の政変
京都御苑の南面中央に位置する堺町御門は、御苑の正門で5月の葵祭や10月の時代祭の行列がこの門から出立します。
文久3年8月18日、この門前で『8月18日の政変』と呼ばれる事件が起きました。
=政変以前の政情=
200年余り鎖国を続けてきた江戸幕府は、1853年ペリーの浦賀来航により「日米和親条約」を結び、さらに1858年、天皇の許可を得ないままに「日米修好通商条約」を締結し、外国からの圧力に対抗して広がる尊皇攘夷思想を弾圧した。
しかし、桜田門外の変・坂下門外の変が起こり、幕府の権威は失墜した。
同年、将軍家茂と和宮の婚儀が行われるが、朝廷内でも急進派の勢力は強く、過激な公家や長州藩を好まれない孝明天皇は、急進派公家と長州の排除を命じた。
=8月18日=
近衞、二條ら公武合体派の公家と京都守護職松平容保、所司代稲葉長門守が参内し、中川宮から勅旨が奏上された。九門を会津藩、薩摩藩が固めたため、堺町御門警備の長州藩が御門に集結した時にはすでに門内に入ることは許されなかった。
=政変の結果=
急進派の三條實美をはじめとする七卿と長州藩は京都を追われることとなった。
しかし、翌元治元年(1864年)には、池田屋事件を経て長州藩は京都に出兵し『禁門の変』へと至るのである。
なお、当時の堺町御門は、丸太町通に直接面しておらず、東は鷹司家、西は九條家と接し北に奥まり建てられていました。文久3年8月18日は、1863年9月30日にあたり、まさに155年前の御苑を舞台にした大事件でした。