明治150年記念 禁門の変
京都御苑の西側中央近くに本瓦葺四脚門の蛤御門が建っています。
このあたりは、幕末の禁門の変の激戦地でした。
攘夷を唱え朝廷に影響力を有していた長州藩は文久3年8月18日(1863年)の政変で京都を追われ、翌元治元年6月には、勢力挽回を策して三条小橋の池田屋で集会中に新撰組の襲撃を受け、尊攘派志士に多くの被害を出しました。
この報は長州に直ちに伝わり、長州諸部隊は続々と武装上京し、山崎、伏見、天龍寺に陣を構えたのです。
7月19日早暁、戦端が開かれた伏見で、長州はあえなく敗走しますが、天竜寺から出撃した隊は御所に達し中立売御門を破ります。
蛤御門を守る会津藩は後退し、長州が公家門に迫ったところ、乾御門を守る西郷隆盛以下薩摩兵が駆けつけ激戦となりました。
この戦いの最中、清水谷家の椋のそばで長州藩の指揮官・来島又兵衛が討死したと伝えられています。
山崎から発した一隊が堺町御門に到着したのは、蛤御門付近の戦いが終わろうとする頃で、乱戦のなか鷹司邸内で松下村塾の俊才久坂玄瑞も亡くなったと伝えられています。
このとき、邸内に放たれた火は、河原町三条の長州藩邸などの火とともにどんどん焼けといわれる大火になり、21日ようやく鎮火しました。焼失範囲は、東は鴨川から西は堀川、北は一条から南は七条におよび、洛中の3分の2を焼きました。京都の町に大きな被害を与えたことは言うに及びません。150年余り前の夏の出来事です。
なお、御苑の外周九門は、明治の大内保存事業により現在の位置に移設されたもので、江戸時代末の蛤御門は外周の内側、南向きに建っていました。
閑院宮邸跡レクチャーホールで、展示を行っていますのでご来苑をお待ちしています。