
新宿御苑とその周辺は徳川家の家臣・内藤家の下屋敷でしたが、明治に入り、大蔵省は内藤家の邸宅地と周辺地計17万8千坪(59ヘクタール)を購入し、明治5年(1872)に、国内外の農園芸の研究を行う国営の農業機関「内藤新宿試験場」を開設しました。
内藤新宿試験場では、新しい国づくりのためには農業の近代化が重要であると、西洋農業技術の研究や、指導者の育成が進められました。明治12年(1879)に新宿御苑の土地が皇室に献納されると「新宿植物御苑」に改称し、皇室の御料地・農園として運営されました。この農事試験場に人生を捧げて貢献し、新宿御苑の発展を語る上で欠く事ことのできない人物が福羽逸人です。
福羽逸人は石見国(現在の島根県)に生まれ、明治5年(1872)、16歳の時に内藤新宿試験場の実習生となり明治11年からの農事修学場の勤務を経て、明治31年には新宿御苑の総責任者にまでのぼりつめました。その間、明治40年(1907)に爵位を、大正8年(1919)には農学博士の称号を受けました。
福羽逸人は国内初の無加温室での温室ブドウの栽培、メロンの作出のほかオイルサーディン、羊肉、ウミガメ、野菜などの缶詰作り、ジャム、ピクルス、ゼリーなどの試作も行いました。野菜や果樹、花卉の栽培研究を進め、民間への普及にも力を入れました。そして、明治33年(1900)に、オランダイチゴの栽培品種の実生を選抜して「福羽イチゴ」を作出しました。当時は皇室献上用で「御苑イチゴ」や「御料イチゴ」とも呼ばれ、門外不出の果物でしたが、大正時代に促成栽培用の高級品種として全国に普及しました。長細い楕円形の大ぶりなイチゴで色・形・味・香りともに優秀な品種として、世界的にも名声を得るほどの有名なイチゴになりました。
2018年7月19日 16:13