4月21日(土)、日本ツバキ協会理事で農学博士の山口聰 氏と、国産紅茶発祥の地である丸子の里のお茶栽培農家・村松二六 氏とともに、国産紅茶製造ゆかりの地・新宿御苑の歴史を辿る園内散策会が実施されました。
私たち国民公園協会新宿御苑職員も同行し、昔の図面を使った検証や、園内散策を通した情報交換を行いました。
(写真上:フランス式整形庭園近くのチャノキ、写真下:チャノキの観察)
新宿御苑は、徳川家康の家臣・内藤氏の江戸屋敷の一部がそのルーツといわれています。
明治5年(1872)、大蔵省は内藤家の屋敷地跡に「内藤新宿試験場」を開設しました。大蔵大臣の大久保利通がリーダーとなり、新しい国づくりのためには農業の近代化が重要であると、西洋農業技術の研究や、指導者の育成が進められました。
その後、明治12年(1879)に新宿御苑の土地が皇室に献納されると「新宿植物御苑」に改称し、皇室の御料地・農園として運営されました。
この頃の新宿御苑ではさまざまな西洋野菜や果物が栽培されていました。今では身近な食材であるキャベツやトマト、たまねぎ、レタス、アスパラガス、マッシュルーム、にんにくなどの野菜のほか、イチゴやメロン、オリーブ、リンゴ、ブドウ、ナシ、スモモ、水蜜桃などの果樹が御苑で試験栽培されたのち全国へ広まった歴史があります。
(写真:かつて紅茶製所があったとされる千駄ヶ谷門付近の桜園地一帯を望む)
この明治期において、生糸と並ぶ日本の重要輸出品だったのが「お茶」でした。当初は緑茶が中心でしたが、明治政府は欧米でよく飲まれていた紅茶の製造を奨励し、勧業寮の官吏だった多田元吉を紅茶製法の調査のため中国、インドに派遣しました。
多田元吉は旧幕臣で、文政12(1829)年に千葉県で生まれました。明治2年(1869)に徳川慶喜に従い駿河(現在の静岡県)に赴き、拝領した土地(現在の静岡市丸子)にて広大な茶園を開いてお茶の栽培を行っており、功績が高く評価されての抜擢だったそうです。
多田は、明治8年(1875)から明治10年にかけて、中国、インドのダージリン、アッサム、セイロン島(現在のスリランカ)などに出張し、チャノキの種子をはじめ、栽培方法、紅茶製造方法、病虫害研究、近代茶業につながった機械の図面、有機農法など多岐に渡る紅茶製造の技術を学び、日本に持ち帰りました。
明治9年(1876)1月に多田は中国より帰国しますが、同年4月にチャノキの種子を新宿御苑の地に播種し、秋に製茶試験を行ったという記録があるそうです。その後の明治10年2月には御苑に導入した種子を各地にも配布したとされています。
多田は3年に渡る海外出張から帰国した後、日本での紅茶製造の普及に努め、持ち帰った技術が緑茶製造の発展にも貢献したことから、日本の緑茶紅茶の祖といわれています。
園内散策では、各所で生育しているチャノキの観察を行いました。中央休憩所近くにはグリーンアドベンチャーの案内看板が設置されたチャノキがあります。
お茶といえば「夏も近づく八十八夜~♪」という童謡でおなじみですが、ちょうど茶摘みの時期ということもあり、丸く刈り込んだ樹形が優しい黄緑色の新芽に包まれていました。
園内売店では「まりこ紅茶」をはじめを新宿御苑の歴史にちなんだドリンクやスイーツをご紹介しています。
園内散策の際にはぜひ売店にもお立ち寄りください。
(写真:フランス式整形庭園近く)
2018年4月22日 09:00