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江戸城の石垣について

皇居外苑の見どころ

東御苑の入り口のひとつ北はね橋門の画像です。

特別史跡江戸城跡に指定されている皇居を散策していると、お濠を囲い込むように高くそびえ立つ石垣に目を奪われます。よく見ると、それらの石垣は乱雑に積まれたようなものから加工されびっしりと整頓されたものなど様々。そこで、今回の記事では江戸城跡で見られる石垣の種類や加工、積み方についてご紹介します。

 

日比谷ミッドタウンから撮影した富士見三重櫓の画像です。

石垣のお話しの前に江戸城の歴史について簡単に説明すると・・・

江戸城郭の起源は康政3年(1456年)太田道灌が築いたのが始まりです。

小田原北条氏の滅亡後、天正18年豊臣秀吉の命により徳川家康が江戸へ入府します。秀吉の没後、慶長5年の関ケ原の合戦の勝利で天下は家康の手中に転がり、慶長8年(1603)江戸に幕府が開かれます。(画像は日比谷ミッドタウンから撮影した富士見櫓)

 

すぐに全国の諸大名による『天下普請(てんかぶしん)』いわゆる大規模な土木改修工事が計画され三代将軍家光の時代、寛永13年(1636)に惣構えが完成します。

江戸城で使われている巨大な石材は古くから良質な石が産出されると名声の高い伊豆半島から切り出した硬質な『安山岩(あんざんがん)』などが海路を使い調達されました。

それでは、石垣を鑑賞する時に押さえておきたい点『石の加工の仕方』と『石の積み方』についてご紹介します。

 

【江戸城で見られる『石の加工』とは・・・】

石の加工は大きく分けて、野面積み(のづらづみ)、打込接(うちこみはぎ)、切込接(きりこみはぎ)の3つですが、近世城郭である江戸城でみられる石垣のほとんどが、打込接か切込接に加工されています。

打込接(うちこみはぎ)は、隣り合う石のすき間を減らすために角や面をタガネなどで叩き平たく加工したものです。それでも隙間ができてしまうので、間詰石(まづめいし)で丁寧に隙間を埋めてつくられています。

 

打込接の石垣は家康による江戸城改修が始まった慶長11年(1606)頃のもので、東御苑の入り口のひとつ『北桔橋(きたはねばし)』や苑内の白鳥濠で見る事ができます。(画像は汐見坂から撮影した白鳥濠の石垣)

 

そして、1615年以降多用された切込接(きりこみはぎ)とは角や面、そして表面も徹底的に平らにそして四角く加工して石を隙間なく密着させる、大変手間のかかる加工です。本丸の近くに百人番所という検問所があり、その向かいにある中之門跡は切込接のお手本ともいえる美しい石垣です。

また石のかたちとしては、鎌倉時代末期に開発された野面積(のづらづみ)があります。加工されていない自然石をそのまま使って積み上げるため荒々しい見た目ですが、排水性にすぐれ高い強度を維持する野面積は江戸城以前の城郭で見る事ができます。

江戸城ではあまり見かける事は出来ませんが、乾通り一般公開の時期にのみ通る事のできる西桔(はね)橋門跡付近に野面積風の石材部分が見られます。

 

【次に押さえておきたいポイントは・・・『石垣の積み方』】です。

文字通り、石垣をどう積むかという事で、基本的には布積(ぬのづみ)と乱積(らんづみ)があります。

布積み(ぬのづみ)とは、石のつなぎ目が横に一直線になっている積み方、そして乱積(らんづみ)とは、布積みとは違い横方向の石の列が乱れている積み方です。(画像は布積み)

 

したがって東御苑内の汐見坂の一部は、“打込接加工の石を使い乱積で出来ている”という事がわかりますね!

 

また石垣の隅角で長方形の石材が交互に重ね合わさった部分の技法を算木積(さんぎづみ)といい、石垣が崩れないように強度をよりアップさせる積み方があります。

2016年に発生した熊本地震で倒壊した熊本城の全壊を食い止めた『奇跡の一本石垣』と称される部分がこの算木積です。

 

本丸曲輪にある高さ12メートルの天守台の隅角に施された算木積の見事な曲線が、黒漆に塗られた『寛永度天守』当時の姿を想像させます。(画像は現在東御苑内で公開されている江戸城天守復元模型)

今回は基本的な石垣の見分け方をお伝えしてまいりましたがいかがでしたか?

江戸城は石垣の美しい城郭です。一見同じように見える石垣も場所によって石の種類や加工、積み方に違いがあります。石工の技術や当時の城郭の様子を想像しながら散策すると時代の変還が見えてくるかも知れませんね。

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