【明治維新150年記念企画 第二弾】<特集>絵画と聖蹟でたどる明治天皇のご生涯(3)

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 今回の特集では『絵画と聖蹟で辿る明治天皇のご生涯(2)』の続編、最終章をお送り致します。

『第3章』【近代国家への道】

 

内乱が収まった日本各地を、明治天皇は巡幸した。

皇后も、華族女学校や東京慈恵医院などに行啓した。

行幸啓は多くの国民に力を与え、国民の心を一つにしたのである。

そして日本は、近代国家への道を着実に歩み続ける。

明治15年(1882)の軍人勅諭。

軍人の政治活動を禁じ、五つの徳目が示された。

明治22年の大日本帝国憲法発布。

自ら率先して憲法を遵守し、国民の幸福を増進することを決意された。

明治天皇は明治23年の教育勅語の下賜。

道徳教育の理念を説かれ、国民精神の拠り所を指し示された。

さらに同年、貴族院と衆議院から成る帝国議会が開設。

順調に進む近代化。ところが、戦火はすぐ近くに迫っていた。

 

 

50_枢密院憲法会議.tif

枢密院(すうみついん)憲法(けんぽう)会議(かいぎ)

 明治21年(1888)6月18日、赤坂仮皇居の枢密院(すうみついん)において、憲法草案の審議が始まりました。

 明治14年、9年後(明治23年)の議会開設を期して憲法制定の作業が始められました。翌15年、伊藤博文は憲法調査のためにヨーロッパに渡り、約1年半にわたってベルリン大学教授グナイストやウィーン大学教授シュタインの講義などを受け、プロイセン憲法がわが国の国情に照らして最も参考になる、との確信を得て帰国しました。

 明治17年、伊藤は制度取調局を設置、井上(こわし)・伊東巳代(みよ)()・金子堅太郎を御用掛とし、ドイツ人顧問ロエスエルらの助言を得つつ憲法草案の起草を進めました。

 明治21年4月、皇位継承など皇室制度の基本法である皇室典範(てんぱん)および国家の根本法である憲法の草案が完成し、草案の審議を行う枢密院が設置され、初代議長に伊藤が就任しました。6月18日、憲法の審議が始まり、午前十時から午後三時まで会議は行われ、天皇は必ず出席されました。疑義(ぎぎ)があれば、翌日伊藤を呼んで質問されています。

 11月12日午後、会計法の審議中、皇子の昭宮猷(あきのみやみち)(ひと)親王が薨去(こうきょ)されたとの報告がもたらされました。伊藤議長は審議を止めようとしましたが、天皇はお許しにならず、通常通り審議が続行されました。列席者たちに薨去の事実が知らされたのは、審議終了後のことでした。憲法の制定に向け、天皇は毅然たるご姿勢で審議に臨まれていたのです。

 

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明治天皇(中央)のご出席を仰ぎ、枢密院議長の伊藤博文(右隣)が憲法草案の趣旨を説明する光景。

左側の机には、奥から順に有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王、小松宮(あき)(ひと)親王、伏見宮貞愛(さだなる)親王、北白川(よし)(ひさ)親王、有栖川宮(たけ)(ひと)親王、内大臣三條実美、内閣総理大臣黒田清隆が並び、右側から中央手前にかけて各顧問官が列席しています。

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51_憲法発布式.tif

憲法(けんぽう)発布式(はっぷしき)

 明治22年(1889)2月11日の紀元(きげん)(せつ)、明治天皇は大日本国憲法(明治憲法)を発布し、内閣総理大臣黒田清隆に授けられました。わが国は、アジアで最初の立憲国家となったのです。

 壁画は、皇居の正殿において天皇が憲法の原本を黒田首相に授けられる場面を描いたものです。

 紀元とは建国の年のことです。明治6年、天皇は2月11日を紀元節と定めて国の祝日としました。

 憲法発布の朝、天皇は皇族や諸大臣を従えて宮中三殿(賢所(かしこどころ)(こう)霊殿(れいでん)神殿(しんでん))を拝し、神々に奉告されました。明治6年以来、天皇は赤坂の仮皇居にお住まいでしたが、憲法発布の1ヶ月ほど前に新宮殿(明治宮殿)にお移りになりました。

 正殿で行われた憲法発布式では、勅語が下されました。勅語には、この憲法はわが国の伝統に基づいて制定され、将来にわたってわが国の基礎となるものであるから、自ら率先して憲法を守り、国民の幸福を増進させたい、と天皇のご決意が記されています。

 天皇は伊勢の神宮、神武天皇の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのささぎ)、孝明天皇の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)をはじめ、全国の主な神社に勅使を差遣して憲法の発布を奉告されました。また、岩倉具視(ともみ)・大久保利通・木戸孝允(たかよし)など、この日を待たずして物故(ぶっこ)した明治維新の功臣たちの墓前にも勅使を差遣されています。

 明治維新に際し、天皇は神武天皇の建国を理想とする王政復古を宣言し、翌年、五箇條御誓文では新時代の指針を示されました。明治憲法の発布は明治維新の総仕上げであり、明治時代の大きな節目となりました。

 

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天皇は、黒田清隆首相に憲法の原本を授けられました。

手前の壇上には皇后(昭憲皇太后)のお姿が、最前列手前には伊藤博文枢密院(すうみついん)議長が参列しています。

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52_憲法発布観兵式行幸啓.tif

憲法発布観兵式行幸啓(けんぽうはっぷかんぺいしきぎょうこうけい)

 明治22年(1889)2月11日、前夜から降り続いた雪は東京の街を銀世界に変え、アジア初の立憲国家の出発を祝うかのように、清らかな白雪の中で憲法が発布されました。

 発布式典の最中、祝砲が轟き、寺の鐘が一斉に鳴り響きました。街には華やかな装飾がほどこされ、山車(だし)や仮装行列が繰り出し、万歳の声がこだましました。東京の街は興奮の坩堝(るつぼ)と化したのです。

 憲法発布式の終了後、青山練兵場で行われる陸軍および海軍の観兵式に参列するため、天皇・皇后両陛下は皇居を出発されました。

 壁画は、両陛下がお乗りになった六頭立ての儀装(ぎそう)馬車が桜田門を通過した光景を描いたものです。

 ドイツ人医師ベルツの日記には、観兵式から帰る少女たちについて、彼女たちは雪解けの中で数時間立っていたのであるが、いささかも疲れを覚えなかったかのように、楽しげな顔で家路についていた、と記されています。

 わが国が欧米に学んで近代憲法を制定し、立憲国家の仲間入りしたという実感から、国をあげて人々は祝ったのです。祝賀行事は全国各地で行われました。

 これまで政府に批判的な言論活動を続けてきた人々でさえ、「聞しに(まさ)る良憲法」(高田早苗「帝国憲法を読む」、『憲法雑誌』第一号)であるとか、「大体に於ては実に称賛すべきの憲法」(『毎日新聞』2月19日)である、と評しています。

 発布式の翌日、両陛下は上野公園で開催された東京市民奉祝会に行幸(ぎょうこう)(けい)になり、沿道や会場では多くの市民が奉迎しました。奉祝会は市民の強い要望により実現したものでした。

 

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お堀端には雪が積もり、天皇・皇后両陛下の乗られた馬車を拝観する市民の姿が見えます(左下)。午後、両陛下がご出門(しゅつもん)の頃には雪は止み、空には青空が広がって陽光が射し始めました。

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画像:聖徳記念絵画館より提供

文:明治神宮監修・打越孝明著『絵画と聖蹟でたどる 明治天皇のご生涯』(新人物往来社、2012)より転載

 

2018年2月20日 12:28

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