【明治維新150年記念企画 第二弾】<特集>絵画と聖蹟でたどる明治天皇のご生涯(2)

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 今回の特集では、『絵画と聖蹟でたどる明治天皇のご生涯(1)』の続編をお送り致します。

 

『第二章』【明治の御一新】

いまだ戦乱冷めやらぬ中、明治天皇の行幸が断行された。

目的地は「江戸」から名前を変えたばかりの「東京」。

江戸城への御入城。東京城へと名を改めた。

新たに東京が都と定められ、明治の御一新が幕を開ける。

版籍奉還。諸藩が領地と領民を天皇へ返還した。

廃藩置県。中央集権の体制が名実ともにととのうことになった。

そして、岩倉使節団の米欧派遣。

新政府のリーダーたちが米欧諸国を歴訪し、世界を知った。

世界との差を知った新政府は、さらに近代化を推し進める。

しかし、明治維新の立役者であった西郷隆盛が挙兵し、西南戦争が勃発。

西郷軍の敗北をもって、幕末維新は幕を閉じた。

 

17_東京御着輦.tif

東京御着輦(とうきょうごちゃくれん)

 明治元年(1868)10月1日(新暦11月14日)、浜名湖に近い東海道の(しろ)須賀(すか)宿において、明治天皇は歴代天皇として初めて太平洋を見はるかされました。浮世絵師の歌川広重が「東海道五拾三次 白須賀」に描いた太平洋も、当地から望んだものです。

 4日、大井川を渡河するにあたり天皇は、金谷台からやはり歴代天皇として初めて富士山を望み見られました。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われてきた大井川は、江戸時代を通じて軍事上の配慮から橋が架けられていなかったのですが、天皇がお通りになるということで急ぎ仮の橋が架けられました。9日、相模の大磯の浜で、天皇は地引網をご覧になりました。天皇の叡覧(えいらん)に興奮したのでしょうか、(ふんどし)一丁の地元漁師が樽に入れた魚を御前まで直接持って来るという珍事も起きました。

 13日(新暦11月26日)は江戸城入城の日です。天皇のご一行は品川の行在所より宮中の(みやび)やかな装束を身に着けて出発しました。岩倉具視(ともみ)の提案によるもので、徳川の世が終わって意気消沈している人々を思っての計らいでした。

 沿道は群衆で(あふ)れかえりました。天皇行幸(ぎょうこう)というわが国開闢(かいびゃく)以来の盛事を目の当たりにして、東京の人々は沸き立ちました。東京湾に浮かぶ外国艦船も祝砲を放って敬意を表しました。

 江戸城は東京城と改められ、新たに東京が都と定められました(東京奠都(てんと))。新時代が到来したのです。

 会津地方の戦乱はようやく終結を迎えましたが、いまだ余燼(よじん)がくすぶっている地方も残っています。東幸は徳川氏の居城への行幸でしたので、軍事的・政治的な緊張は予期されたことでしたが、長い間隔絶されてきた天皇と国民との距離を縮めることが最優先とされたのでした。そして、天皇にとって東幸は、東国の自然に初めて触れ、庶民の生業(なりわい)を間近に見聞される貴重な機会となったのです。

 

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天皇がお乗りになった鳳輦(ほうれん)が江戸城に到着し、手前の木橋を渡って奥の二重橋へ向かわれる光景。

騎馬の岩倉(左端)らが先導しています。

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20_廃藩置県.tif

廃藩(はいはん)置県(ちけん)

 明治維新の最大の目的は、初代神武天皇を模範として天皇を中心とする近代国家を建設することにありました。

 明治2年(1869)6月、新政府は版籍奉還を諸藩に命じ、全国の藩の領地(版図)と領民(戸籍)が天皇へ返還されました。しかし、依然として旧藩主が微税権や軍事権などを保持し、藩知事として統治していたため、実態は江戸時代とほとんど変わるところがありませんでした。

 長州藩の木戸孝允(たかよし)らは、藩を廃止して新たに府と県を設置する廃藩置県を極秘のうちに立案・計画して、一挙に断行へと導きました。

 明治4年(1871)7月14日(新暦8月29日)、皇居に在京の藩知事が召集され、「廃藩置県の(みことのり)」が下されました。詔には、国民の安泰を保持し、欧米列強と対抗するうえで廃藩置県は不可欠の改革である、と述べられています。

 廃藩置県により藩知事は罷免されて東京居住を命じられ、新たに中央政府より府知事もしくは県知事(県令)が派遣されました。天皇を中心とする中央集権の体制が名実ともに整い、明治維新の大改革が達成されたのです。明治4年末に全国は3府72県、21年には3府43県となりました。

廃藩置県の断行に際して薩摩・長州・土佐各藩より約1万人の御親兵が集められ、不測の事態に備えましたが、ほとんど抵抗はありませんでした。

 封建制度が平和的に廃止されたことについて英国公使は、仮に欧州においてこのような改革を成功させるには、武力を用いて相当の年月が必要であり、天皇こそは「真神の能力」を有するご存在である、と驚嘆しています(『岩倉公実記』)。

 

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旧江戸城西の丸御殿の紫宸殿(ししんでん)代大広間における光景。

御座所の中におられる天皇の前で、右大臣三條実美(中央右から2人目)が詔を読み上げ、

各藩知事が平伏して謹聴しています。

御座所の近くには、岩倉具視(ともみ)(中央左から3人目)や木戸孝允(同2人目)が控えています。

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37_西南役熊本籠城.tif

西南役(せいなんえき)熊本(くまもと)籠城(ろうじょう)

 明治10年(1877)1月29日、明治天皇が東京から京都に到着された翌日、鹿児島の地で思わぬ出来事が起きました。政府の弾薬庫が襲撃を受けたのです。襲ったのは、西郷隆盛が設立した私学校の生徒たちです。これが西南戦争の事実上の勃発となりました。対朝鮮対策をめぐって政府と意見を異にした西郷は、明治6年に政府を去り、鹿児島に帰郷していました。

 西郷隆盛を指導者と仰ぐ旧薩摩藩士を中心とする部隊は、2月21日より熊本城の総攻撃を開始しました。熊本城には、西郷軍の進撃を阻止するため土佐藩出身の谷(かん)(じょう)を司令官とする政府軍が立て籠もり、激しい戦闘が繰り広げられました。この攻防戦の最中、政府軍の一員として出陣していた長州藩出身の乃木(まれ)(すけ)が西郷軍に連隊旗を奪われるという事件が発生しています。

 熊本城近郊の田原坂(たばるざか)では十数日間にわたって激戦が続き、西郷軍の一番大隊長の篠原(くに)(もと)が戦死するなど、しだいに戦局は西郷軍に不利な形勢となりました。結局、西郷軍は熊本城を陥落させることができず、撤退を余儀なくされました。

 西南戦争が勃発した頃、天皇は近畿地方を行幸(ぎょうこう)中で、京都に還幸する直前に西郷軍が進撃を開始したのでした。行幸の日程は変更され、天皇は東京へ戻らずにそのまま京都に滞在されることになりました。

 7月末、内乱が収束に向かいつつあった頃、ようやく天皇は東京に還幸されたのです。

 9月24日、西郷は鹿児島の城山で自害し、7ヶ月におよぶ西南戦争は終結しました。徴兵制の政府軍が薩摩士族の軍隊を撃破したのです。

 

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花岡山に陣を敷く西郷軍が大砲を引き上げ、熊本城を砲撃する光景。

城下には火の手が上がり、城は煙に包まれています。

遠く阿蘇山では噴煙が上がっています(右端)。

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最終章へ続く

 

2018年1月15日 16:10

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