【明治維新150年記念企画 第二弾】<特集>絵画と聖蹟でたどる明治天皇のご生涯(1)

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 平成29年から30年にかけて、大政奉還、明治維新150年という大きな節目を迎えます。これに際し、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館から特別にご提供戴いた貴重な絵画とともに、その解説を、打越孝明著「絵画と聖蹟でたどる  明治天皇のご生涯」(新人物往来社、平成24年)より転載し、近代国家へと歩み始めた日本の躍進と、新たな国づくりに臨まれた明治天皇の御姿を3回に分けてご紹介します。

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<はじめに> 聖徳記念絵画館 副館長 藤井正弘氏

 

嘉永6年(1853)、日本にペリーが来航し、徳川幕府は開国を余儀なくされました。

この前年に明治天皇はお生まれになられ、開国後間もなく265年続いた徳川の政権が終わりを告げ、天皇中心の明治時代がスタートします。外国からの脅威にさらされていた厳しい時代に15歳という若さで日本のリーダーとなった明治天皇の胸中を思うと大変不安であったことと推察します。しかし、この若き天皇を支える側近たちも実はとても若いことに驚かされます。

 

聖徳記念絵画館の壁画『江戸開城談判』で有名な西郷隆盛と勝海舟の年齢は、なんと41歳と45歳。また明治の功労者である岩倉具視でさえ43歳。伊藤博文(明治18年(1885)初代内閣総理大臣になる)にいたっては27歳という驚くべき若さでした。

大政奉還から明治維新という時代の流れは、天皇を初めとする若者の手によって成し遂げられ、現代にない頼もしさや力強さを感じずにはいられません。

 

聖徳記念絵画館は明治天皇とその御后の昭憲皇太后のお二方の御遺徳を幕末・明治史と合わせ、未来に伝える役割を担っています。また近代日本美術史、あるいは近代美術建築というような多角的な魅力を持つタイムカプセルのような場所でもあります。

明治維新から150年という節目の機会に明治神宮外苑を訪れ、聖徳記念絵画館というタイムカプセルを覗いてみると未来へのヒントがみえてくるかもしれません。

 

 

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『第一章』【幕末の動乱】

徳川家康が戦国の世を終わらせ、幕府を開いてより250年。

徳川幕府は永遠に続くと、多くの者が信じていた。

嘉永5年(1852)9月22日(新暦11月3日)、121代孝明天皇の皇子がご生誕になる。のちの明治天皇である。

同じ年、アメリカのノーフォーク港から艦隊が出航した。

ペリー提督率いる黒船の艦隊である。

黒船の来航と開国の要求は、徳川の世に衝撃を与えた。

攘夷と開国、倒幕と佐幕。世は大いに乱れた。

その動乱の中、明治天皇は幼少期を過ごされた。

そして、孝明天皇の突然の崩御。

明治天皇は122代天皇として踐祚される。

御年14歳。「明治天皇」の御代の、始まりである―。

 

 

 

 

 

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大政(たいせい)奉還(ほうかん)

 慶応2年12月、15代将軍に就任した徳川慶喜(よしのぶ)は、フランスの支援を受けて幕府の立て直しに努めたものの、大きな成果を得られませんでした。

 この年の1月、秘密同盟を結んでいた薩摩・長州両藩は、公家の岩倉(とも)()と結んで武力を用いた討幕をめざし、慶応3年(1867)10月14日(新暦11月9日)、ついに「討幕の密勅」が発せられました。

 しかし、公武合体の立場をとる土佐藩では、密勅の先手を打って、天皇へ自発的に政権を返還するよう前藩主の山内(とよ)(しげ)が慶喜に進言しました。新たな体制のもとで新しい日本を築き上げるべきとする坂本龍馬の意見に基づくものです。土佐藩の狙いは、政権返上後も徳川氏が実質的な権力を保持することにありました。

 土佐藩の進言を受け入れた慶喜は、政権を天皇へ奉還する決意を固めて側近に告げるとともに、在京各藩の重役を召し、政権返上についての自らの意見書を示しました。

 10月14日、慶喜が大政奉還を朝廷に申し出たため、朝廷はこれを受理しました。ここに初代家康以来15代、265年続いた徳川幕府が滅ぶとともに、鎌倉時代から700年近く続いた武家の政治は幕を閉じたのです。

 壁画は、二条城内の黒書院(くろしょいん)において、幕府の重臣たちを前に徳川慶喜が政権を天皇へ奉還する決意を述べる光景を描いたものです。

 武力討幕派は、突然の政権奉還に戸惑い、密勅による討幕を断念せざるを得ませんでした。政局はますます混迷を深め、政治的な空白が生まれました。

 

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大政奉還の決意を告げる慶喜(中央奥)の近くには、会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)(右奥)や桑名藩主で京都守護職の松平定敬(さだあき)(右手前)、老中板倉勝静(かつきよ)(左奥)や若年寄永井(なお)(ゆき)(右隣)らが控えています。

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6_王政復古.tif

王政(おうせい)復古(ふっこ)

 慶応3年12月9日(新暦1868年1月3日)、「王政復古の大号令」が発せられ、天皇を中心とする新政府が樹立されました。明治維新の幕開けです。

 改革の精神は、初代神武(じんむ)天皇の建国の精神に基づくものでした。強大な欧米諸国の圧力に対峙しつつ新しい日本を築いていくことは、神武建国に比すべき困難かつ遠大な大事業でした。そのためには長く続いてきた制度を一新することが必要不可欠です。鎌倉時代以来の幕府が廃絶となると同時に、平安時代以来の摂政(せっしょう)や関白も廃されて、天皇が改革の先頭に立たれることが強く求められたのです。

 9日夜、天皇ご臨席のもと、新たに任命された総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職によって、15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の処遇を決める新政府最初の会議が開かれました(小御所(こごしょ)会議)。薩摩の西郷隆盛が指揮する兵力が警戒する物々しい雰囲気です。

 壁画は小御所会議を描いたものです。

 会議では、前土佐藩主で議定の山内(とよ)(しげ)が慶喜を会議に列席させないのは、「幼冲(ようちゅう)の天子を擁し、陰険(いんけん)の挙を行はん」とするものであると主張したのに対し、公家で参与の岩倉(とも)()は「今日の挙は一に皆聖断に出でざるはなし、何ぞその言を慎まざるや」と反論しました(『明治天皇紀』)。いざとなったら慶喜を弁護する山内を短刀で倒せと西郷が岩倉に迫った、とも伝えらえています。結局、新政府に慶喜を加えないという結末となりました。

 

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山内豊信(左)と岩倉具視(右)とが対立する緊迫した場面を描いています。

御簾(みす)の中には明治天皇がおられます。天皇の御心はどのようであられたことでしょう。

有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王(右奥)をはじめとする右側の列席者が岩倉を支持し、尾張藩主の徳川(よし)(かつ)(左奥)や隣の前越前藩主の松平(よし)(なが)ら左側の列席者が山内を支持しました。

小御所会議は新しい日本の命運を決する重要な場となりました。

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12_五箇條御誓文.tif

五箇條(ごかじょうの)御誓文(ごせいもん)

 明治元年(1868)3月14日(新暦4月6日)、京都御所の紫宸殿(ししんでん)において五箇條御誓文が布告されました。

 壁画は、紫宸殿に設けられた神前において南面される天皇を前に、新政府の副総裁三條(さね)(とみ)(中央左)が五箇條御誓文を読み上げる光景を描いたものです。

 御誓文は、明治天皇みずから新国家建設の指針を天神地祇(ちぎ)に誓われたものです。明治維新に至る政治的実践の総括であるとともに、近代日本の理念となりました。その内容は次の五箇條です。

 

一、広ク会議ヲ興シ万機(ばんき)公論ニ決スベシ

(広く人材を求めて公正な意見に基づく政治を行う)

一、上下(しょうか)心ヲ一ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ

(地位の上下を問わず心を一つにして積極的に国を治めととのえる)

一、官武一途(いっと)庶民ニ至ル迄各(その)志ヲ遂ゲ人心ヲシテ(うま)ザラシメン事ヲ要ス

(すべての国民がそれぞれの志を達成できるように希望を失わせない)

一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ

(これまでの悪い習慣を捨てて万人が認めるような道理に基づく)

一、智識ヲ世界ニ求メ(おおい)ニ皇基ヲ振起スベシ

(知識を世界に求めて天皇国日本の礎を奮い立たせる)

 

 いずれの箇條についても明治天皇の強い決意が示されています。

 御誓文に続く一節において、みずから率先して五箇條の達成に励む覚悟であるので「協心努力」してほしい、と天皇は国民に呼びかけられました。御誓文と同日に発せられた国民への御宸翰(ごしんかん)(手紙)の中でも、みずから国民に先んじて実行するとの覚悟を述べられています。

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天皇は屏風の内側に()し、副総裁の岩倉具視(ともみ)(屏風の右)をはじめとして、

在京の親王・公卿・諸侯などが列座しています。

玉座の背後にあるのは、中国の賢聖(けんじょう)や名臣を描いた「賢聖の障子」です。

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13_江戸開城談判.tif

江戸(えど)開城(かいじょう)談判(だんぱん)

 東征大総督の有栖川宮熾仁(たるひと)親王が率いる東海・東山・北陸三道の新政府軍は、京都から江戸へ進撃し、江戸城の総攻撃の日が近づいてきました。

 旧幕府軍は徹底抗戦の姿勢を示し、江戸城の攻防戦は避けがたい状況となりました。この時、百万都市江戸を戦禍から守るため、新政府軍と交渉にあたったのが陸軍総裁の勝海舟でした。勝は、大総督府参謀の西郷隆盛と旧知の仲でした。剣豪で知られる山岡鉄舟を駿府城(静岡)に陣を構える西郷のもとへ派遣し、会見の場を設けることに成功します。

 二人の会見は、江戸の薩摩藩邸で二回にわたって行われました。勝は、江戸を戦場とすることで多くの命が失われ、わが国の国力が削がれることになる、と西郷に訴えました。

 明治元年(1868)3月14日(新暦4月6日)、江戸城の明け渡しや徳川慶喜(よしのぶ)の謹慎などを条件として、翌15日に予定されていた江戸城の総攻撃は取り止めとなりました。「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」。

西郷はこう答えたといいます。談判に際して西郷は、「始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽べつするというようなふうがみえなかった」と、勝は回想しています(『氷川清話』)。こうして、江戸は奇跡的に戦禍から免れることができたのです。

 奇しくも、勝と西郷が談判した同じ日、京都では五箇條御誓文が布告され、新時代の基本方針が示されました。この日は、わが国にとって歴史的な一日となったのです。

 翌4月、江戸城は新政府に引き渡され、無血開城が実現しました。勝と西郷は、後世に偉大な功績を残したのです。

 

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薩摩藩邸において勝海舟(右)と西郷隆盛(左)が会見する光景。

勝は羽織袴の姿で、刀を左側に置き、脇差(わきざし)を差したままです。

散髪の西郷は筒袖に段袋(だんぶくろ)(ズボン)の姿で、脇差を差しています。

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【明治維新150年記念企画 第二弾】<特集>絵画と聖蹟でたどる明治天皇のご生涯 (2) へ続く

2017年12月 1日 09:02

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